ある説明

東直子が「コーポみさき」という連作に「金属の文字がはずれたあとにあるコーポみさきのかたちの日焼け」が含まれていることを理由に「コーポみさきに誰かと住むようになった」(「短歌」二〇一八年十一月号)と読み取ったことに対して、山階は「思うに、この一首から読み取れるのは、看板(建物)を見た、あるいは看板(建物)があった、という情報くらいではないか」と言って平然と居直る(…)。筆者も(…)と感じているが、山階の立場からすれば、作品とのチューニングが合わなかった、作品に含まれた意図にそぐわない感想として、東の評のように即座に一蹴できてしまうだろう。濱松哲朗「アンダーコントロールの欲望」『穀物』第6号
※原文は下線部に傍点

 初読のとき「アンダーコントロールの欲望」にはおかしい部分があると感じました。自分の書いた文章(「大反省」『うに ーuniー』)が引用された箇所において(わざとなのかうっかりなのかはさておき)読者に原文の内容とまったく異なる文意として伝わるような書きかたになっている、という感覚でした。けれども「大反省」を書いてからまだ日が浅く、どこまでがその文章に書いたことでどこまでがいま自分の思っていることなのかという区別をつけきれず、思い込みによって「大反省」あるいは「アンダーコントロールの欲望」の内容をねじまげて理解してしまっている可能性もすてきれなかった。そして、結果として抱いてしまった嫌な感情にまかせてなにかを書きはじめることをどうしてもしたくありませんでした。

 それから、信頼できるいく人かの人に「アンダーコントロールの欲望」と「大反省」とを読みくらべてもらい、ぼくの感覚のほうがおかしかったわけではないという確証が得られたように感じました。それでも、いったん「アンダーコントロールの欲望」に書いてあることも、「大反省」に書いてあることも、すっかり忘れてしまうまでは時間をおいてみる必要があると思いました。半年くらいを考えていたけれど、半年経ったころにはそれどころではなくなって、そしてまたずいぶん時間が経ちました。ふたつの文章を読み返すと、ほんとうにすっかり忘れることができていたので、かえって都合がよかったともいえましょう。

 なにがおかしいのか。引用に誤りがあるというわけではありません。引用された「大反省」は、実作者の立場から連作について書いてほしいという稀風社からの依頼を受けたものです。『穀物』も『うに ーuniー』も同人誌という媒体なのでものすごく広く読まれるわけではなく、どちらも手にして読みくらべる人は多くないかもしれないというのも、いまこの文章を書いている理由のひとつです。

「大反省」では、連作について考えるにあたって角川短歌賞次席になった連作「コーポみさき」を例に挙げましたが、「金属の〜」の歌に「コーポみさき」という名称が出てくるのみで、「五十首のどこにもコーポみさきに住むことになったと書かれてはいない(「大反省」)」わけです。ではどうして「コーポみさきに誰かと住むようになった」という評がでてくるのか。(「平然と居直る」という形容がふさわしいと感じるかどうかは人によると思うので実際に『うに ーuniー』を手にして原文を読んでほしいのですが)「金属の文字がはずれたあとにあるコーポみさきのかたちの日焼け」という歌について「この一首から読み取れるのは、看板(建物)を見た、あるいは看板(建物)があった、という情報くらいではないか」と書いたのはたしかで、いまもその意見に変わりはありません。「この一首から読み取れるのは」です

 短歌を並べると、一首ずつの歌にある余白の部分に、ほかの歌に書かれていること、あるいは書かれていないこと(=歌にある余白の部分に想像されたこと)がノイズのようにまざり、一首の歌から読み取れること、読み取りたいことを変容させることになる。(山階基「大反省」『うに ーuniー』

 ある歌を読むにあたり、連作をおなじくするほかの歌は「作品の外」にある文脈という性質を持つということも、あらためて心に留めておきたいです。(山階基「作品の外、わたしの周囲」『短歌研究』2020年1月号

 連作という空間では、ある歌を読むにあたって、その歌から読み取れることにくわえて、連作にあるほかの歌をはじめとする「外にある文脈」が影響を与える。「大反省」にはそのことがていねいに書いてあります。その、書き出したばかりの、ほんの最初の部分だけを抜き出して、山階は「東の評」を「一蹴」したといってしまうのは、あまりにも短慮ではないでしょうか。それも、引用された部分だけ読めば、原文でほんとうにそうしているかのように読者が錯覚してしまう書きぶりで。青字の箇所には『風にあたる』についての感想が書いてありますが、その感想についても「即座に一蹴」されてしまうだろう、というのは、もはや被害妄想でしょう(ふたつの文章をどちらも読んだ人がどう判断するかというところではありますが)。

「アンダーコントロールの欲望」というタイトルからわかるように、この文章は、作者(山階基)には読者を「コントロール」したいという欲望があるという仮定に基づいて書かれています。ある作者の作品から、作者にあるらしい欲望を仮想したり、その仮定に基づいて論じたりすることについては、読者の自由です。作品に「チューニングが合わない」のは「作者側ではなく、あくまで読者側の受け取り方の問題である」と「アンダーコントロールの欲望」にあるとおりだと思います。けれども、なにかを述べるにあたって文章を引用するとき、述べたい文意に合わせるために原文の意味をねじまげるという方法で読者を「コントロール」しようとする欲望が筆者にあったとすれば、それほど悪質なものはないです。

 さて、「アンダーコントロールの欲望」を最初に読んで、おかしい、この書き手は信頼できない、と思いました。そのとき、かれがこのようにいう『穀物』という場をかれとおなじくしていることが、一気に耐えられなくなりました。もしかしたら、それまで無意識にずっと耐えていたのかもしれません。『穀物』第6号が世に出た日に、今後『穀物』には参加しないという意思を(かれを除いた)同人全員に伝えました。

 そうして『穀物』から離れて、かれと十分に距離をとって、そしてずいぶんと時間をおいてみて、よかったことがあります。このたび読み返した「アンダーコントロールの欲望」のほかの箇所について、感情に目が曇ってしまうことなく読むことができました。かれが信頼できない書き手だという感じが消えることはないのかもしれませんが、すくなくとも文章を読むことはできるようになって安心しています。

2021/5/18追記
「アンダーコントロールの欲望」は、評論集『日々の鎖、時々の声』(2021・私家版)に再録されています。

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