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忘れないうちに感想を:映画『春原さんのうた』

転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー 東直子『春原さんのリコーダー』 映画『春原さんのうた』(監督:杉田協士)は、この短歌を原作として掲げている。歌集『春原さんのリコーダー』におさめられたほかの短歌たちも、映画のなかに響いているようだ。 おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする 夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした 少し遅れてきた人の汗ひくまでのちんちろりんな時間が好きよ 彼の椅子がこちらを向いていたのです息づく者がまだいるように あざやかにあなたはあらわれそして消え煌々と灯は明るいばかり 映画に満ちている淡さや優しさ、底に流れつづける痛みと慈しみについてはわたしがここで語るまでもないとして。人が人と接するとき、会話のやりとりや交わされる視線のうちにどうしても生じてしまうちょっとした齟齬や居心地のわるさが、そのまま映されているようにもみえて好感があった。(これは観るほうの体調などにも左右されるかもしれない。同じく杉田監督作品の『ひかりの歌』を観たときには、そういった感じをどうしても受け付けられなかった、ような記憶がある。)『ひかりの歌』において、人が人に向ける視線、かける声に欲や願望がこびりついている感じがほのめかされ、あるいは明らかにされていたのに対して、『春原さんのうた』は、それがあるようなないような、どこまでもぼやけてはっきりしないところが、わたしにとっては心地よかったのかもしれない。ひるがえって、ふだんわたし(たち)は、フィクションのなかで(さえ)どれだけ齟齬や違和感を削ぎ落とされた、あるいは誇張されたやりとりをみせられているのだろうかということを思う。 ひとつひとつの短歌が集められて連作という世界を組み上げていくように、この映画もつくられているように感じた。東直子作品の大きな魅力のひとつは、短歌のなかに書かれていない(けれども感じられる)余白の質があまりにゆたかなところだとすれば、『春原さんのうた』は、辻褄を合わせたり説明をくわえたりせず、決してその余白を埋めあわせてしまおうとはしなかった。ほんとうに素晴らしいことだと思う。短歌を映画の原作にする杉田監督の試みは『ひかりの歌』に続いて2作目。原作である短歌との(少なくともわたしにとって)理想的な距離感を保ちながら、自身もかがやいている映画が早くも(?

柚子湯

冬至だから、柚子湯をやっているという近所の銭湯まで自転車で行く。ひさびさにハンドルに置いた指がどんどん冷えていった。もう何年も手袋を持っていない。たまに乗るくらいの自転車は、雨や砂にさらさないよう部屋の中に置けるものを選んでよかった。 お湯に柚子がぽかりぽかり浮いているほのぼのしたさまを想像していたら、泡と水流の噴き出る湯船の手すりに、地引き網みたいにぎっちり柚子を詰めた網がふたつくくりつけられてうごめいていた。隣にしずかな湯船もあるのにどうして。 網には取り出した果肉や種も入れてあり、匂いはとてもよい。なんどか手元まで網を引き寄せてかぐ。周りの客もときおり手や足でふわふわと柚子の網をいじくっている。ごちそうの大皿をみんなでつついている感じで、ひとつずつ浮いているとこうはいかなかった。 プールや風呂のような大きな水が好きで、滅多なことがなければ自宅の湯舟に日々つかる。銭湯はたまのぜいたくとして欠かせないので、引っ越しのときは近くに銭湯があることを指針のひとつにしていた。 とはいえ、身体の嵩が少ないからか長湯をするのはむずかしい。好きなことと得意なことが食い違うのがこんなにしんどいこともなかなかないと思う。この銭湯は、熱い湯船、きょうは柚子が浮いている泡と流れの湯船、ぬるい湯船、水風呂という豪華な取り合わせになっていて、ぬるい湯船と流れの湯船を行き来すればそこそこの時間を過ごすことができてありがたい。 ぬるい湯船でのんびりしていると正面に面識のある俳人がはいってきた。この人はなんて銭湯が似合うんだろう。というのがまずあって、冬至に柚子湯を浴びにくるとは、俳人は季語の世界に生きているというのは本当なんだろうなという感慨でため息がでる。 くつろぐために来ているだろうし、風貌が以前とけっこう変わっているからたぶんこちらのことは知れていない。マスクをしていない丸腰で話すのもためらわれて、声をかけることなくしばらく湯船を行き来して過ごす。 もう充分というほどあたたまり、柚子の匂いも吸いたいだけ吸ったあと、ゆっくり髪をかわかしながら、出てくるのを待って話しかければいいかと思いつく。そういえばヘアオイルも好きで柚子のを使っていて、すこし過剰なほどになった。 休憩スペースにあまり長居をしないよう注意書きがある。番台に小銭を置いてトマトジュースをもらう。無塩のやつなのがうれしい。空にな

地の果て

住むところを決めなくてはならない。パソコンで賃貸情報サイトの間取り図を見比べながら、していることの甘美な無意味さにうっとりしてしまう。いまの部屋を出ることになるのはおよそ1年先だから、どんなに気にいった間取りの部屋があっても、いざ引っ越すという頃にはきっとすべて埋まっているだろう。 予定のなかった休みの日、アラームもなしに出勤に間に合う時間に目を覚ましていたら、徹夜明けらしい友人から寄ってもいいかと連絡がきた。うべなうと、なにか買ってきてほしいものはないかというので、豚ばら肉をたのむ。提げてきたスーパーの袋にカットフルーツと値引きシールの付いたちょっといい牛乳も入っていて、朝っぱらからの来訪をゆるした。受け取って冷蔵庫にしまうとき牛乳は私が飲みますといわれる。ふたりとも朝食はまだで、冷凍うどんをとかして焼きうどんを作る。友人はラグに転がってなにかしている。だれがいつ横になってもいいようにラグがあってよかった。 しゃべっているとそのまま午後になる。牛乳を半分くれるというのでココアを作ることにした。友人にもすすめると、お酒をいれて飲むからいいという。牛乳をふたりぶん火にかけているうちに友人はねむってしまった。部屋をさがすにあたって、労働のことを念頭におかなくてはいけない。長い移動には楽しみもあり、そのぶん疲れもする。移動時間を半径にしてなんとなく丸を書いてみると、いま住んでいるあたりとはぜんぜんちがうであろう土地も見えてくる。まずは可能性として、いちばんかけ離れたところを見てみたくなった。いまから。 友人をゆすり起こして温めなおした牛乳をわたす。遠出するけど付き合ってくれるかというと、暇だからいいですよという。部屋を出ると寒さは思ったよりきつく、厚いコートに着替えに戻った。途中までは定期券の区間だけど、ふだん降りない駅から知らない路線に乗り換えて、北へ向かう。目的の駅に着くと夕暮れどきになっていた。 車線の多い道路の向かいに巨大な集合住宅群が広がっている。幼い頃を過ごしたあたりでは、団地といえば山の斜面などを切り拓いた住宅地のことを指していた。かなりせまい範囲でしか使われていない用例だとあとで知っておどろいた。道路沿いにある集合住宅の根元はスーパーマーケットや自転車屋になっていて、たくさんの暮らしがまとまっているという迫力がある。無数の窓のひとつひとつが、暗いものも明る

観光

明るくて広い空間に、電気を通せば動くという機械が似たものどうし固められて並んでいる。その多くは遠目に見ると四角にぼやけていくような形をしているから、いっそうぎっしりと敷き詰められて見える。 水の音がする。ひとつふたつの最新型らしいドラム式の洗濯機が、ここで洗うためだけに用意された服やタオルをばしゃばしゃいわせている。その前に子供がいて、左へ右へと回るさまをいっさい動かずにじっと見ている。きっと楽しんでいるのだろうと様子をうかがうと、これでもかというほど険しい表情をしていた。 でも、こんな風に動いているのは少しだけで、ほんとうに電気を通すことができる機械もけして多くはない。ほとんどは機械によく似せられた箱だ。 冷蔵庫を開けっぱなしにすると後でひどいことになるけれど、ここでは冷蔵庫のそっくりさんが扉を全開にされ、抽斗という抽斗をだらしなく引っぱり出されている。ゆるされないことがまさに目の前で行われているようで、じわじわと気持ちがよくなってくる。野菜のにせもの、ドアの内側のこことここにおさまるという大小の缶ビールが刷られたぺらぺらのポップ。2リットルのペットボトルは模型ではなさそう。ぽかんと開いた扉に手を差し入れても冷たくはなく、妙だ。 機械を見ても、機械そっくりの箱を見ても、それぞれどういうものなのかはあまりよくわからない。かわいげのあるツラをしているとか、背が高いとか細身だとか。よく比べたら違うところは少しずつ見えてくるから、眺めていてまったく飽きはこないけれど、それがわたしにとってなんなのだろう。強すぎるくらいの照明をうけて、さまざまに光ってみせる箱や筒や板……。ここにあるすべては、通り過ぎるだけのわたしにはどうしようもない。のろのろと歩きながら、そういう気持ちが観光なんだと思う。もっというと旅のことだと。 でも、はじめはそんなつもりじゃなかった。数年ぶりに引っ越しをすることを決めたからここにきた。来年の2月のことはいまはまだ遠すぎるのか、なにひとつまとまらないまま、いくつもフロアを通り過ぎたら表はもう暗くなっていた。すっかり乾いた傘を差して出る。

ある説明

東直子が「コーポみさき」という連作に「金属の文字がはずれたあとにあるコーポみさきのかたちの日焼け」が含まれていることを理由に「コーポみさきに誰かと住むようになった」(「短歌」二〇一八年十一月号)と読み取ったことに対して、山階は「思うに、この一首から読み取れるのは、看板(建物)を見た、あるいは看板(建物)があった、という情報くらいではないか」と言って平然と居直る(…)。 筆者も (…)と感じている が、山階の立場からすれば、作品とのチューニングが合わなかった、作品に含まれた 意図にそぐわない 感想として、東の評のように即座に一蹴できてしまうだろう。 ( 濱松哲朗「アンダーコントロールの欲望」 『穀物』第6号 ) ※原文は 下線部 に傍点  初読のとき「アンダーコントロールの欲望」にはおかしい部分があると感じました。自分の書いた文章(「大反省」 『うに ーuniー』 )が引用された箇所において(わざとなのかうっかりなのかはさておき)読者に原文の内容とまったく異なる文意として伝わるような書きかたになっている、という感覚でした。けれども「大反省」を書いてからまだ日が浅く、どこまでがその文章に書いたことでどこまでがいま自分の思っていることなのかという区別をつけきれず、思い込みによって「大反省」あるいは「アンダーコントロールの欲望」の内容をねじまげて理解してしまっている可能性もすてきれなかった。そして、結果として抱いてしまった嫌な感情にまかせてなにかを書きはじめることをどうしてもしたくありませんでした。  それから、信頼できるいく人かの人に「アンダーコントロールの欲望」と「大反省」とを読みくらべてもらい、ぼくの感覚のほうがおかしかったわけではないという確証が得られたように感じました。それでも、いったん「アンダーコントロールの欲望」に書いてあることも、「大反省」に書いてあることも、すっかり忘れてしまうまでは時間をおいてみる必要があると思いました。半年くらいを考えていたけれど、半年経ったころにはそれどころではなくなって、そしてまたずいぶん時間が経ちました。ふたつの文章を読み返すと、ほんとうにすっかり忘れることができていたので、かえって都合がよかったともいえましょう。  なにがおかしいのか。引用に誤りがあるというわけではありません。 引用された「大反省」は、実作者の立場から連作につい

組版・デザインのこと

余暇に、組版とデザインをしています。 条件やスケジュールによってはお引き受けできませんので、イベント参加が決まっている場合などは余裕を持ってご相談ください。 これまでの製作物のサンプルをこちらの googleドライブ からPDF形式でダウンロードできます。 ※文章などの内容は仮のものなので辻褄は合っていません 予算の目安 (納期やページ数などによります) 同人誌(短歌のみ)  20,000円〜30,000円 同人誌(短歌+文章)  30,000円〜40,000円 同人誌(小説・散文)  50,000円〜 ペーパー イベント告知フライヤー (カラー・両面、写真とイラストの配置・文字数大)  30,000円 ネットプリント (B4・6頁・モノクロ、短歌と文章の文字組)  10,000円 カード (A4片面・カラー、写真の配置・シンプルな文字組)  5,000円 ペーパー (A4片面・モノクロ、シンプルな文字組)  5,000円 ご依頼・ご相談について ご相談やご質問、料金のお見積りなどについては、こちらの googleフォーム からお気軽にご連絡くださいませ。フォームに入力するようなことはほとんど決まっていないけどひとまず相談したいという場合は以下のアドレス宛にメールを直に送っていただいてもかまいません。 組版・デザインのご相談 coopomisaki@gmail.com