映画『春原さんのうた』
転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー 東直子『春原さんのリコーダー』 映画『春原さんのうた』(監督:杉田協士)は、この短歌を原作として掲げている。歌集『春原さんのリコーダー』におさめられたほかの短歌たちも、映画のなかに響いているようだ。 おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする 夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした 少し遅れてきた人の汗ひくまでのちんちろりんな時間が好きよ 彼の椅子がこちらを向いていたのです息づく者がまだいるように あざやかにあなたはあらわれそして消え煌々と灯は明るいばかり 映画に満ちている淡さや優しさ、底に流れつづける痛みと慈しみについてはわたしがここで語るまでもないとして。人が人と接するとき、会話のやりとりや交わされる視線のうちにどうしても生じてしまうちょっとした齟齬や居心地のわるさが、そのまま映されているようにもみえて好感があった。(これは観るほうの体調などにも左右されるかもしれない。同じく杉田監督作品の『ひかりの歌』を観たときには、そういった感じをどうしても受け付けられなかった、ような記憶がある。)『ひかりの歌』において、人が人に向ける視線、かける声に欲や願望がこびりついている感じがほのめかされ、あるいは明らかにされていたのに対して、『春原さんのうた』は、それがあるようなないような、どこまでもぼやけてはっきりしないところが、わたしにとっては心地よかったのかもしれない。ひるがえって、ふだんわたし(たち)は、フィクションのなかで(さえ)どれだけ齟齬や違和感を削ぎ落とされた、あるいは誇張されたやりとりをみせられているのだろうかということを思う。 ひとつひとつの短歌が集められて連作という世界を組み上げていくように、この映画もつくられているように感じた。東直子作品の大きな魅力のひとつは、短歌のなかに書かれていない(けれども感じられる)余白の質があまりにゆたかなところだとすれば、『春原さんのうた』は、辻褄を合わせたり説明をくわえたりせず、決してその余白を埋めあわせてしまおうとはしなかった。ほんとうに素晴らしいことだと思う。短歌を映画の原作にする杉田監督の試みは『ひかりの歌』に続いて2作目。原作である短歌との(少なくともわたしにとって)理想的な距離感を保ちながら、自身もかがやいている映画が早くも(?...